言葉って本当に強い力を持っていると思います。
何気なく発した言葉が
(そんなつもりはないのにってこともあると思います)
誰かを傷つけることもあれば、
励ましてくれることもある。
だからこそ、毎日使う「言葉」は良い気分の言葉を
使いたいなぁと思う。
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7月に短大時代の恩師から封書が届きました。
その中に
先生が主宰されている朗読の会の会報誌と共に
短いお手紙が添えられていました。
きっと昨今の状況から
店舗を営業している私を元気づけようと、
書いてくださった言葉なのだろう。
最後の言葉を読んで
私は涙が止まらなかった。
その言葉は
「がんばるのよ!」
・
4月に父が亡くなったという話を
長々とブログに書かせていただいたのですが
「5/8 愛する父へ最期の手紙」
ブログを書いた後も、なかなか悲しみから抜け出せずにいました。
私の両親は幸いにも、とても仲が良かったのですが、
実は母は元々心臓が弱く
普段から入退院を繰り返していました。
父の最期の方は、病院から「もう入院した方がいい」と言われながら
ずっと父のために入院を拒み
かなりの体力を消耗していたようです。
父の告別式もあまりの体調不良で出席することができず
式場から救急車で運ばれていくほどでした。
その時先生に言われたのは
「母は普通の人の20%しか心臓の働きがない」というものでした。
・
その後母は退院し、
実家に戻っていた私たちと数か月暮らしました。
きついからいいよって言うのに
仕事で帰りの遅い私たちのために食事を作ってくれ
「ただいま」って帰ると「おかえり!お疲れ様」
と言って満面の笑みで迎えてくれました。
本当に可愛い可愛い母でした。
・
7月の中ごろ
普段は検診の日以外、病院へ行きたがらない母が
珍しく病院へ行きたいというので
夜中に緊急入院をさせてもらいました。
私たちは、今までのように
1か月くらい入院して加療すれば
また一緒に暮らせると思っていました。
現に翌日にはすっかり顔色も良くなって
「きっとお父さんの初盆の頃には戻って来られるね」って
話していたんです。
・
だけど
2日後に急変し、処置をしていただいたことで
何とか持ちこたえましたが
一人部屋に移され、点滴を13本も繋がれ
さらには足の付け根に刺した針のせいで
動いてはダメと言われ。
母にとって地獄のような日々が始まりました。
母はお友達が多く、
初対面の人ともすぐに仲良くなる、人当たりのとても良い人でした。
コロナ禍でお友達や親戚にもお見舞いを遠慮・・・というか
入院していること自体伝えていなかったんです。
私たちも仕事が忙しいのと、休日もコロナのことがあり
なかなか長い時間一緒にいてあげれなくて。
一人部屋の天井を見ながら、母は何を思っていたのでしょう。
それでも、私たちが駆け付けると
「忙しいとにごめんね」って。
母は弱音を全く吐かずに、
体がきついとは言うけど、私たちに当たることもなく。
本当に立派な人でした。
・
母の最期は
父の初盆が終わった翌週でした。
呼吸がどんどん浅くなっていく母の
呼吸器はどんどん大きなものになっていき
体がとにかくきつい母は、少しだけ精神的にも不安定になりました。
病院からモルヒネを勧められました。
迷いましたが、母が少しでも楽になってくれるならばと
結果お願いしました。
母は「私たちのために生きたい」って言いました。
きっと本当はきつくてたまらなかったはずなのに
私たちの事を最期まで心配してくれました。
父が迎えに来たそうです。
(母はなんかそういう力がありました)
でも「申し訳ないけどお断りしました」って言っていました(笑)
・
モルヒネと麻酔薬のおかげで
苦しむことは減っていきましたが
私たちとの会話もどんどんできなくなっていきました。
何度も「お母さん」と叫びました。
苦しいのに母は「はーい」と答えました。
「ごめんね、何度もお母さんって呼んで」って言ったら
「いいのよ」って言いました。
私の中でこれが最期の会話だったと思います。
言葉を発することはできなくなりましたが
私たちの手をぎゅっと力強く握ってくれました。
そして、それもできなくなっていきました。
・
コロナは本当に憎いです。
私たちは病院の計らいで長い時間(個室だったこともあり)
病室にいさせていただけたのですが
宿泊だけはどうしても許可が出ませんでした。
看護師さんに「私たちは泊ってもいいと思っているんです」って
言っていただいたこと忘れません。
きっと看護師さんもつらいと思います。
母にたくさん優しくしていただいて
本当にありがとうございました。
母の最期を
私たちは看取ることができませんでした。
夜中に病院から電話があり、できるだけ早くと駆け付けたのですが
間に合いませんでした。
いままで沢山愛情をもらってきたのに。
本当にごめんね。
・
父の時はコロナのこともあり家族葬にしたのですが
母のお通夜とお葬式は通常通りさせてもらいました。
沢山の方に来ていただき
お通夜が終わった後も、一目母に会いたいと長い長い列が
続きました。その光景を一生私は忘れません。
母はそんな人でした。
こんなに立派な両親の元に産まれてこれて
私はきっと人生の90%くらいのラッキーを使い果たしていると思います。
・
母が亡くなって2か月ほど経ちました。
今は仕事が忙しく(母の仕事が私の仕事になりました。今決算処理で大変です)
やることが多くて普段はいつもの私でいられています。
お店に訪ねてきてくださるお客様や友人はみんな優しくて
私を笑顔にしてくれます。本当にありがとう。
このブログ書くの、どうしようかなって思っていたんですけど
父の事は書いて母の事を書かなかったら
母が焼きもちを焼くだろうなあと思って
(そういう可愛いところが母にはあったんです)
あと、私の中で区切りが付かないなって。
書いたら少し吹っ切れるかなって思って、
めちゃくちゃ私的な事を書かせていただきました。
父の時みたいに、きれいに書けなかったです。
父の死は2年間の闘病期間もあったし、
看取ることができたし、
何しろまだ母がいてくれたから
まだ私の中である程度割り切ることが出来ていたのですが
母の事、まだ咀嚼できていないんです。
母への気持ちや、母の最期の事
初めてこのブログで言うことが出来た感じです。
だからすごく支離滅裂で本当に読みづらいと思います。
まだまだ言いたいことは沢山あるのですが・・・
・
話をちょっと元に戻すんですけど
最初に紹介した短大時代の恩師のお手紙の話。
先生は私の両親の話は全く知らなかったんです。
でも、先生が発した私を想う優しい言葉は
あのタイミングで私が受け取り
違う意味で私はすごく励まされました。
言葉ってもちろん良いタイミングで伝えることも大事だけど
いつ誰の胸に届くか、響くか分からないものだなぁって思ったんです。
だからこそ。
いつもいい言葉を発していたいって思います。
本当に先生ありがとうございました。
そして、こんな支離滅裂な長文を読ませてしまってすみません。
そんな訳で、仕事とか暮らしとか
すこし落ち着くまで、
もう少してがみ屋の営業が元通りになるには時間がかかりそうです。
本当にすみません。
たくさんの方にてがみ屋を知っていただき、愛して頂き
行きたい!と言ってもらえてなんと幸せなことか。と思っています!
でももう少し整える時間をください。
もう少し落ち着いたら、がんばります!
(画像は2019年の1月母の誕生日に渡したお手紙です)
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