さて、この旅も残すところ「大浦天主堂」のみとなりました。
写真に撮っていなくて申し訳ないのですが、
先ほど降りてきた「祈念坂」の一番下のところに
石柱が建っています。
石柱は旧居留地に点在していて(残っているものは少ないですが)
その当時の番地が記されております。
髙さが30cmくらいしかないので、気を付けておかないと
気づかないくらいです。
「大浦天主堂」の横にある石柱は「南山手乙一番地」
「大浦天主堂」
正式名称は「日本二十六聖人殉教者堂」といいます。
1597年に「西坂」で殉教した二十六聖人を保護者と仰ぐため、その3年後に建てられました。
本来ならば「殉教地である西坂」に建設したかったのですが、教会は居留地外は許されていなかったので、居留地ぎりぎりの1番地に建立し、西坂の方向に向かって建てたそうです。
フューレ神父、プティジャン神父が資金を集め、建設業者を探し周り、グラバー邸建設者でもある、天草の棟梁小山秀之進が建築。
建築された当時(1864年)は「ふらんす寺」と呼ばれていました。
今の形になったのは、1979年。
また、その後原爆の被害に加え、創建後80年余りがたって老朽化が進んだことから、1947年に改修工事に着手、1952年に工事が終了しました。
「信徒発見」
1865年3月17日プティジャン神父を訪ねて、男女12~15名の一団がやって参りました。
その際ご婦人が胸に手をあてて、こういいました。
「ここにおります、私どもは、あなた様と同じ心を持っております。」
「サンタ・マリアの御像はどこ?」
豊臣秀吉の時代からキリスト教の禁教令が出され、激しい弾圧化にあった日本では
「潜伏キリシタン」として生きてきた信徒たち。
7代後には神父が黒船に乗ってやってくる。と信じられていたそうです。
信徒たちにとっては「神父発見」
250年間(7代)待ちわびていた瞬間だったわけです。
一方のプティジャン神父にとっては、「信徒発見」
日本でキリスト教徒はもういないのではないか。。と思っていた
ところ現れたキリスト教徒たちでした。
これは宗教史上の奇跡と呼ばれる大事件でした。
その後、浦上に潜伏していたキリシタンは、役人の目を盗んでは
こぞって大浦天主堂に訪れます。
*ちなみにプティジャン神父は長崎に来る前、琉球にて
日本語を習得しております。
「浦上四番崩れ」
信徒発見後の1867年
浦上では過去3回のキリシタン摘発(崩れ)があったが、幕末から明治にかけての
四番崩れが最大最悪の迫害となった。
浦上キリシタンは激しい拷問を加えられ、最終的に3394人が
全国各地20藩に預けられ、拷問を受けたり、苦役に従事させられた。
その後各国公使からの抗議に対しても「内政問題」として突っぱね続けて
いた政府であったが、『安政の開国条約の不平等条約改正』を
訴える日本に対し「信教の自由がなければ条約改正に応じない」とする
ヨーロッパ諸国に最後は同調し、1873年キリスト教を黙認することとなりました。
大浦天主堂は、現代の長崎人にとっては
「そこに鎮座されていて当たり前」の存在であり、
ただの(と言ったらとても変ですが)教会であるとばかり
思っていました。
こんなに色々な困難とともに、そこに存在した意味が
分かり、さらに貴重な国宝であることが分かりました。
おそらく来年には、世界遺産に登録されるであろう
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」
にはそんな潜伏キリシタンたちが自分の命と変えてまでも
守ろうとした信仰の歴史が隠されています。
そして、その当時の農民たちが「キリスト教」になにを見たか。
今の苦しみを癒すもの、希望にあふれたもの、亡くなったあとは
パライソへ行けると信じられるもの。であったのだと思います。
熱く、キリスト教についてお話していますが
私は仏教徒です(笑)
世界の人々が、どんな宗教観を持っていようとも
目指す先はみな同じであると思っています(*^_^*)